20231210 谷中から神保町まで、まち歩き
こんにちは。齋藤研の佐藤です。今回は12月10日に行った谷中から神保町間で行ったまちあるきについてです。
出発は西日暮里駅。ほどよい暖かさでまち歩きにはちょうど良いお天気でした。今回は私を含めた3年生5人と先生、そして大学院生の2人の8人で行いました。
最初に訪れたのは谷中。ここはかつて寺町として栄え、現在も多くの寺院が現存する歴史ある街です。
最初の目的地はやなかぎんざ。観光地として有名な古き良き商店街です。しかし今回は観光が目的ではありません。周囲の店に目をとられつつも道を進みながら気づいたことがあり、地元の商店街ではあるものの、観光地にされてしまった日々を支える商店街とは少し違った印象を私は感じました。お店自体が閉まっている所が多く、日用品や食べ物を売る店が暮らしている人より、外から訪れる人のためのお店という印象が強かったのです。
やなかぎんざを奥まで全て見てきたわけではないので、完全にそうとは言い切れませんが私にはそう感じられました。ふとした所で脇道に入り、先生がある所を指さしました。「ここの道がズレている理由はなんでしょう。」と。
正解は「家が建った時代が違うから」でした。現在の法律で住宅の前は4m以上の幅がある道路に2m以上接している必要があり、そのために住宅をセットバックし道路幅の確保を とっているのです。このように谷中は古い家と新しい家が混在しとても複雑な構造でまちができています。また古い住宅も多く、長屋と呼ばれる建物も存在しています。
長屋の定義としては個々の住居に外部から直接入れることや敷地と道路が2m接していればいいということがアパートやマンションなどの集合住宅と異なっている点です。それだけでなく谷中には古い住宅をリノベーションすることで、店舗として再利用している建物があり、多くの観光客が訪れていました。
とても家と家の間が狭く密集しており、とても風情あるよい場所だと感じつつも災害時に危ない場所とも感じました。また道も狭くうねっていたり凸凹していたり、古い町であることがそこかしこから感じられました。
谷中霊園前についたとき唐突に道幅の広い道路が現れ、なぜここの道路のみこんなに道幅が広いのか疑問になりました。この場所に接続している道路は片側1車線でありこの区間のみ片側二車線の広さがある道路になっていました。
調べてみると東京都が「都市計画道路の見直し方針について」というものがあり、西日暮里から上野までの間に都道を通し谷中地区を迂回するルートを解消する計画があったそうです。しかし路地も多く寺社の私有地もあり、なかなか計画も進まない。また観光地化されてきていることで歴史ある街を残すために中止されたということでした。
この道路は作ったはいいものの、計画が無くなってしまった都道計画のなごりと言うものでした。確かにこの周辺は車が通るには狭い道が多く、不便ともいえる土地なのですがそのおかげでこの景観が守られているとなると開発するべきではないのかもしれません。
しかし安全性には問題があり、木造住宅密集地であることや、狭小な路地が網のように張り巡らされている現状は見直すべきだと感じた。実際谷中地区地区計画も進められてきており、2020年10月に高さ制限のある地区計画が適用されない6階立て以上の建物を建てられるエリアができる計画ができたそうです。この計画を知った今もう一度この街歩きをして街を見直してみたいと感じました。
次に訪れたのは上野東京を代表する観光地の一つでもあります。
谷中からはこの都道452号線をそのまま上野方面に南下し東京藝術大学のある通りを抜け東京国立博物館の前に出ることができます。上野は江戸時代から花見の名所として栄え、明治時代に日本初の公園として開園すると文化芸術の集まる重要な拠点となりました。
ここには国立西洋美術館といったコルビュジェが設計した美術館や国立科学博物館といった歴史的建造物の集まる貴重な場所でもあります。谷中からここまででかなり時間がすぎており、もうお昼時と言った所。
アメ横に昼ご飯を食べに行こうとしました。しかし日曜12時頃。時すでに遅し、アメ横は大量の人で埋め尽くされていました。
そこで少し歩いた御徒町まで行けば少しは混雑が無くなると思い、先生もあてがあるとのことで歩き始めました。歩くこと10分弱。「2k540 AKI-OKA ARTISAN」に到着しました。
もともと御徒町周辺は江戸の伝統工芸職人の街であったのでまちづくりをテーマとした施設としてここが誕生したとのことでした。
そこそこの人通りがあり、一面真っ白に塗装された空間と数々の工房とお店が並ぶこの場所はとても面白かったです。また高架下の利用についてもこの空間は考えられており、とても興味深い場所だと思いました。食事はとれなかったため、移動を開始し秋葉原へと向かいました。
秋葉原周辺で食事をとり神田方面へその道中に電気街を見、秋葉原の今でも残る電気街としての側面とサブカルのあふれる地を見ることができました。
ここからお茶の水に向かって歩き次に立ち寄った場所は「mAAch ecute」。
ここは万世橋駅のあった赤レンガの高架下をリノベーションした施設です。とても長細い空間にショップやギャラリー、休憩スペースがあり連続して続くアーチの通路が面白い空間でした。
小休憩をとった後神田に向かいました。道中お茶の水駅周辺に到着した際、先生からこの川は昔の江戸城の外堀であり、ここが分かれ目だという教えがあり調べてみると仙台藩が工事を任されたという記述や、お城の石垣のようなものが残っている所があり、かつての江戸の大きさが圧倒的だったと感じました。
そして本の街神田に到着。なぜここが本の街と呼ばれるのか。それは周辺に大学が多く、その学生のためにたくさんの本屋が店を構え始めたのだ。それと同時に喫茶店や大量のカレーも広まった。カレーは所説あるが片手で本を読みながら、簡単に食事ができてボリュームもあるからとかなんとか。喫茶店はやはり本を読むには喫茶店と言うことなのか。なぜか調べても出てこなかった。また別の機会で深堀してみ良いと思う。しかしそれ以前にも起源があると、いうことで元々神田は武家屋敷の集まる地で、武士が日々の鍛錬の学びをするための書籍を得るのが始まりだとか。これも諸説ありである。実際に有名になりだしたのは明治期に大学が設立されたころなので、その前身として成り立っていたかもしれないと考えると面白い。先生おすすめの喫茶店に行こうとしたものの、今回はお休みでした。少し街中を歩き、東京メトロ神保町駅のある交差点で解散となりました。神保町はそこかしこに古本屋が立ち並び様々な場所に古くなった紙の黄色がちらほら見え、他の場所とは別の所で歴史を感じました。解散後、古書店に入り小一時間ほど古書店にいりびたり戦利品と共に家に帰りました。
今回の街歩きで感じたことは、開発が入らず昔の姿を保った町や開発が入ったから今の形になった街。開発が進んでも過去の姿であり続けるまち。昔の姿が薄まりつつあるまち。など場所場所でそんな印象を抱きました。都心ながらも歴史ある貴重な街並みが残りつつ、時代の変遷を感じられるまちあるきでした。
今回は谷中からのスタートでしたが、今度は神田側からのスタートではまた別の印象や光景が見られそうだと思った。もしくは夕方スタートのまち歩きも面白いかもしれないと感じました。それではまた次の機会で。
東洋大学 ライフデザイン学部
人間環境デザイン学科 佐藤樹広
【参考文献】
・2k540 AKI-OKA ARTISAN https://www.jrtk.jp/2k540/concept/
・仙台市 https://www.city.sendai.jp/tokyojimu/shise/tokyo/masamuneko/sendaibori.html
・旅するミシン店 https://tabisurumishinten.com/?p=5152
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